ねこ箱
これは、私と戦人くんがまだ出会ったばかりのお話。
今日は留弗夫さんとの仕事の打ち合わせで、留弗夫さんの自宅にやってきていた。
…正直、留弗夫さんと明日夢さんが同居している家になんて、足を運びたくもなかったけど。
明日夢さんは友達と少し出掛けるとやらで、数日は不在らしい。
留弗夫さんに説得されて嫌々ながら足を運ぶことになった。
「どうやら戦人は霧江のことを大分気に入っているらしい。年上の姉ができたみたいで楽しいんだとさ。良かったら相手をしてやってくれ」
そういえば、彼にお得意のチェス盤思考の話をして、盛り上がったこともあったっけ。
勿論、上辺だけだけど。
全く、そんなこと、よく白々しくも言えたものだわ。
あの子が私を気に入っているなんて。
留弗夫さんと明日夢さんの子供なんて、見たくもない…。
「戦人。霧江が来たぞ。何か言いたいことがあったんじゃないのか」
「…………」
戦人くんが、部屋のドアの隙間からちょこりと顔を出す。
戦人くんはまだ小学生。大事そうな本をぎゅっと抱きしめながら、こちらを見ていた。
「……霧江さん」
「何、戦人くん?私に言いたいことが?」
嫌な予感がするわ。子供って意外と鋭いところがあるのよね。私と留弗夫さんと
の関係に、気付いたのでは……。
「霧江さん、来て。俺の部屋に」
「ええ、いいわよ」
「おいおい、戦人。俺は仲間外れかぁ?」
「うるせー親父!!お前の顔は見たくない!!絶対入ってくんなっ」
戦人くんが私の手をぐいと引く。
年相応の、とても小さな手だった。
「ちょっと、戦人君…」
戦人くんは私を無理矢理部屋に連れ込むと、ガチャリと厳重に鍵を掛けた。
…反抗期なのかしら。
「親父は相談してもからかうだけだから大っ嫌いだぜ!!」
戦人君は涙目になりながら訴えてくる。
「何か悩みでもあるの?私だったら相談に乗るわよ」
「……うん」
コクリと頷くと、私の目の前に本を差し出した。
その本のタイトルは………『そして誰もいなくなった』。
「俺、今このミステリー小説にハマってんだ。カアサンが初めて俺に買ってくれた本。すげえ大事にしていて」
何だか拍子抜けする。推理についての議論でもしたいのかしら。
「それで、学校の休み時間に読んでて。友達に話しかけられた。それでついこの小説面白いんだぜ!って感じで話題に出してさ」
「うん…。それで?」
「そしたら…そ、そしたら…」
戦人くんのの両目に涙の粒が溜まっていく。
え、ちょっと待って。泣くの?そこで泣くの!?
「………こんな、人がいっぱい死ぬような小説が好きなんて、気持ち悪いって言うんだ……ぐっ…。うぅうう……」
予想通り、メソメソ泣き始める。
以前会ったときから泣き虫だとは思っていたけど…。まあ、小学生だものね……。
「それで、みんな俺のことバカにし始めた。気持ち悪い、不気味だ、人が死ぬのを見るのが好きなのかとか何とか。ひでえよ、みんな。何で誰も分かってくれねぇんだよぉ!」
戦人くんが私の胸に飛びつく。
え、ちょっと待って。こんなの慣れてない。
「カアサンが買ってくれた本だからカアサンには相談しにくいし、親父なんてそんなことに悩んでんのか、バカだなぁって言って真面目に聞いてもくれねぇ。俺、本気で悩んでんのに!」
一度泣き始めたら止まらない。わんわんと外に響くほどにだ。
「戦人君……」
こういうとき、どうしたらいいか分からない。
……私に、子供、いないし。
……そう、ここは大人の対応を。…本当の、母のように…。
「大丈夫よ。私がついている。私は、味方だから…」
戦人君の頭を、そっと撫でる。
「ぅあ……き、霧江さん…。うわぁああああん……」
私は戦人くんが落ち着くまでその小さな体を抱きしめて。ずっと撫で続けていた。
「霧江さん。ごめん、俺。あんなことして、何だかハズい…」
腫れぼったい目をゴシゴシ擦りながら、戦人君は顔を真っ赤にしていた。
「いいの。そんなこと言われたら無理もないわ」
「何か、世界で俺一人みたいな気持ちになってた。友達にそんなこと言われたこと、無かったから」
戦人君は明るい性格で、クラスでは結構な人気者だと聴いている。
普段はイジメに合うなんてこと無いのだろう。
それだけに、突然そんなことを言われてびっくりしたのかもしれないわね。
「このまま俺、みんなに嫌われたままなのかなあ。そんなの嫌だ…。やだぜ俺……」
またジワリと顔が歪む。
ああっまた泣くの!?それは困るわ、ここは大人の対応を……!!
「戦人君、以前教えたでしょ?チャス盤をひっくり返すのよ!」
「チェス盤…」
戦人君がピクリと反応する。
これは、イケる!イケるわ!
「何で友達がそんなことを言ったのか考えるの。戦人君は、嫌われているからって思った?でもね、それは違うわ」
「えっ、だって何人もの友達がそう言ったんだぜ。本当にひでえんだよ」
「思考を止めないで。ミステリー小説と同じよ。最初から思考を止めて読んだら、それでおしまいなのよ。何人もの友達がそう言ったのは、一人がそう言い始めたから。ただの集団行為に過ぎない。話を合わせただけに過ぎない」
私はパチンと指を鳴らした。
「一番最初に言い出した友達の気持ちを考えて。その子とは、どう言った関係?」
「ええっと…。うんと…俺は結構一番仲が良いと思ってた、友達。一緒にふざけ合って、笑って…」
「その友達とは、どういったことで遊んでいたの?」
「えっと、ボール遊びとか、プロレスごっことか!体育の時間は盛り上がって楽しいんだよなぁ」
やっぱり、そうなのね。
「本は、好きだった?」
「えっと…。正直、勉強は苦手みたいだった。俺も嫌いだったな、本読む授業は退屈で。特に英語!ワケわかんねえ」
「それよ!」
「へ?」
解けたわ、謎が。
「彼は、きっと寂しかったんだわ。突然戦人くんが遠くに行ったような気がして、寂しかったのよ」
「どうして??わかんねえ、わかんねえ」
「ふふ、簡単なことよ戦人君。彼は本を読むのが嫌いで、あなたもきっと嫌いだと思い込んでいた。まるで自分が親友じゃ無くなったように、感じたのでは無いかしら?だって、本を読む楽しさが分からないんだもの」
「…そっか…!何か、わかったような…」
「だから、本を読むなんてやめてって遠回しな意味。だって、戦人君と、もっといっぱい遊びたいんだもの。一緒にプロレスごっこしたりしてね?」
戦人君がコクコクと頷く。
「霧江さん、すげえ!でも、俺どうしたらいいんだ?この本好きなのに…。やめなきゃなんないのかな」
「彼の前で本を読んだり、本の話をするのは控えた方がいいのかも。やめる必要はないけど…。本当は、彼に本の楽しさを伝えられたら良いのだけど、難しいでしょうから」
「うん…。学校に持っていくのはやめようかな…」
彼はしょんぼりと肩を下げる。
「落ち込まないで。あなたが少し我慢するだけで、友達との仲は取り戻せるわ。人間関係は、たまにはこちらが合わせることも必要なの。勿論、無理しない程度にね」
ちょっと小学生に難しい話をしてしまったかしらね…。
でも戦人君は理解力があるから、きっとわかってくれる。
「決めたぜ!俺、本嫌いになったって思い切って宣言してやるぜ!!でも家では読む!」
きょ、極端ね。でもいいかしらこれで。最善策なのかは分からないけど…。
「きっと、戦人君ももいつか見つかるんじゃないかしら。ミステリー小説について本気で語れる子が。もしそんな子に会えたら、思う存分話したら良いわ」
「ああ、そうするぜ!!霧江さん、あ…ありがと」
頭を掻きながら照れたような仕草をする彼。
どうしよう。初めてだわ。彼を可愛いと思うなんて。
……私の子も生きていたら、戦人君と同じ年だった。
もしも生きていたら、こんな風に、本当の親子として接することができた……?
ねえ、どうして私の子は死んでしまったの?
どうして、戦人君は私の子じゃないの…………?
「霧江…さん?」
ハッとした。何を考えているの、私。
「ごめん、ちょっと考え事してたわ。ごめんなさい」
「霧江さんも何か悩みあるのか?俺に相談しろよな!俺…霧江さんのこと…姉さんみたいだなって、思っているから」
「…ええ、もしとっても大きい悩みができたら。戦人君に相談するわね」
私は笑顔で対応する。
おおきい悩み?あるわ。とっくの昔から。
姉さん?カアサンではないのね、当然よね、わかっているわ。
わかっている。
だって、だってね……彼は留弗夫さんの明日夢さんの子だもの。
私の子じゃない。
どうして?
今、少しだけ、この子に愛情を注いでもいいなんて思ったの?
そんなの駄目。
だってそれって、留弗夫さんと明日夢さんの仲を肯定することになる。
諦めることになるんだわ。
私は負けた。明日夢さんに負けた。
私は留弗夫さんのこと、今でも愛してる。でも留弗夫さんは?
私は負けた。負けた負けた負けた。
この子に愛なんて、持ってはいけない。
この子は私にとって邪魔な存在でしかない!
「霧江さん、また来てくれよな!」
眩しいくらいの笑顔でそう言われる。
そんな顔で、私を見ないでほしい。
私は考えて考えて考えてずっと悩み続けて。
そして結論を出した。
この日のことを"忘れよう"。
そう心に誓った。
私にとって、戦人君は憎むべき対象。
それはずっと前から決まっていることなのだから。
END